旧制学習院剣道部の活躍の主役は中等科であり、高等科であった。
草創のころの対外試合は本腕の剣道大会に招待した外来選手との、あるいは、各校の剣道大会へ参加しての試合が主なものであった。
明治43(1910)年2月に獨逸学協会中学校(現獨協中学・高等学校)と本院中等科の試合が行われ、以降これが最初の定期戦になったと記録にある。
しかし、何といっても、旧制中学時代における定期戦の最たるものは、
大正13(1924)年に始まった東京高等師範学校附属中学校(現 筑波大学附属中学校、高等学校)との間の定期戦であった。
戦後に剣道部が復興され、この附属戦は新制高等科の定期戦として昭和47(1972)年に復活した。
大学としては、新制学習院大学に剣道部が発足して以来、関東学生剣道連盟及び全日本学生剣道連盟に参加し、対外試合へも積極的に参加するようになり、また定期戦も盛んに行われるようになった。
甲南大学定期戦に始まり、四大学定期戦、防衛大学校定期戦、女子三大学定期戦が現在行われている定期戦である。
男女高等科剣道部
附属戦(対筑波大学附属高等学校戦)男女高等科の対筑波大学附属高等学校との対抗戦、いわゆる「附属戦」は、現在では剣道ばかりでなく色々な運動競技の総合交流戦として
双方の公式学校行事となっており、毎年6月に行われている。
剣道について述べれば、遡ること大正13(1924)年10月に、当時の中等科と東京高等師範学校附属中学校(現 筑波大学附属中学校、高等学校)との間で最初の勝ち抜き三本勝負による対戦が行われた。
これが毎年秋に行われる定期戦「附属戦」となり、旧制中等科剣道部の最大のイベントになった。
旧制中等科剣道部にあっては、附属中以外の他校との試合は、附属戦に勝たんがためのものと言っても過言でないほど最重要な試合であった。
我が剣道部の部歌「(二)秋城北の関の声芙蓉の峰に轟きぬ、あ~仇敵を屠らずば~」の歌詞は毎年10月に行われていた附属戦に対する思いを秋田一季(昭和14年高等科卒)、戸田忠英(昭和15年高等科卒)両名が詠い上げたものである。
この附属戦は、その汗と勝利の歓声、そして、惜敗の涙と共に、新制剣道部にも脈々として引き継がれている。
新制になってからの附属戦は、昭和46(1971)年に男子高等科のオープン戦として復活した。
翌47年秋に戦後の第一回剣道定期戦が開催され、公式戦として復活した。
やや遅れて、同54(1979)年には、女子高等科と附属高校女子とのオープン戦が行われ、以来毎年、男子及び女子高等科の「附属戦」は主要なイベントとして開催されている。
対甲南大学定期戦
お互いに前身が旧制七年制高等学校であったよしみから学習院大学対甲南大学運動競技総合定期戦が昭和31(1956)年から学習院大学の施設に
おいて開始された。
発足間もなかった剣道部は、翌32年から参戦し、学習院が当番校となって始まった。
従って、他部が甲南大学に遠征する時は、剣道部は目白で、剣道部が遠征する時は、他部は目白で甲南戦を行うようになった。
昭和33(1958)年に第二回定期戦が剣道部戦後初の遠征試合として甲南大学の地に近い岡本・王子公園体育館で行われた。
この初遠征はまだ新幹線もない時代、満員の夜行列車「銀河号」の通路に寝そべりながらの遠征であった。
慣れぬ遠征であったが、関西在住の宮地二、長崎道孝(昭和12年高等科卒同期生)の力添えで試合に臨むことができた。
しかしながら、甲南大剣道部は、当時関西の雄で全日本学生選手権一位、三位の選手を揃え、また同大付属高等学校も強豪校として選手層も厚くとても歯が立たず連敗を重ねたが、その後ようやく第七回にして学習院が勝利した。
昭和52 (1977)年に女子定期戦も始まり当初双方の部員数の関係から継続性が危惧されたが、昭和60年代に定着した。
四大学定期戦
成蹊・成城・武蔵・学習院の四大学運動競技大会が発足したのは昭和25(1950)年である。
四大学はいずれも旧制高等学校から新制大学となった学校である。新制大学発足当初から何かと連携を深めていた四大学が、その親睦と交流を目的として武蔵大学の発案で運動競技大会が開催されることとなったのである。
剣道は、柔道と共に戦後の復活は遅く、特に新制大学諸校は基盤もなくその活動は限られていた。
このような事情から、昭和35(1960)年に始まったこの大会は、当初正規な剣道部を有していたのは本院と武蔵大学のみで、成蹊・成城両大学は大会のために剣道経験者を学内に募り出場したというエピソードすらある程である。当初は男子団体戦のみが行われていたが、同41(1966)年からは個人戦、同47(1972)年から新人戦も行われるようになった。
女子の定期戦は同46年から四校によるオープン戦が男子定期戦と並行して行われてきたが、公式競技種目となったのは同50(1975)年からで、この年が第一回定期戦となる。
対防衛大学校定期戦
昭和35(1960)年から防衛大学校との交流戦が始まったが、たまたま、同35年度及び36年度の関東学生剣道大会の二回戦で連続して対戦することになった。
同35年は、防衛大学校が本院を破り全日本学生剣道優勝大会初出場を達成したが、翌36年には本院が勝利し、念願の全日本学生剣道優勝大会初出場権を得た。
これが契機となり同44(1969)年より定期戦が始まった。
平成2(1990)年からオープン戦として行われていた女子戦も、同6(1994)年の第26回からは正式に定期戦となった。
女子三大学剣道定期戦
昭和55(1980)年、秋田総監督と大妻女子大学・新藤長太郎剣道部長の間で話が進み、学習院大学女子対大妻女子大学剣道定期戦が開始された。
しかし、その後平成9(1997)年に第18回の定期戦を行ったものの、大妻女子大学の部員が減少し、定期戦続行が不可能になったためやむなく中断となった。
一方、平成10(1998)年本院の廣永監督女子三大学剣道定期戦と東京家政大学の佐藤理恵監督との間で定期戦を行うことが合意され、東京家政大学との定期戦が開始された。
その後、同12(2000)年に至り、大妻女子大学剣道部が再開され、本院との定期戦再開の申し入れがあった。
これを受けて、従来の個別定期戦を三大学にまとめた定期戦にすべく三大学で協議した結果、同年より対大妻女子大学剣道定期戦、対東京家政大学剣道定期戦を発展的に解消し、三大学剣道定期戦として開催することにした。
